日別アーカイブ: 2019年1月17日

不完全な建築

NAF2019の副代表を務めています、隆範です。今日はNAFのプロジェクトのひとつ「アーキテク茶会」の代表としてコラムを書かせて頂くのですが、なんとコラムを二回書くのは僕だけだそう。NAF2019の副代表として書くときに改まるとして、今回は茶会らしくゆったりと書かせて頂きましたので、お茶でも飲みつつご覧ください。

自宅から15分。地下鉄栄駅の2番を出て真直ぐ歩き、4℃を前にビルを半分下がると見えてくるのが、私が行きつけとするカフェである。なにか思案するときには必ずここにきてニレブレンドを注文するのだが、今がまさにそれだ。
ここ栄は居心地がいい。目的をもって来ればなにかしらの回答をくれるし、目的もなく来ても、なにかにつけて私にアイデアを与えてくれる。東京ほど混沌とはせず大阪ほど煩わしさがないのは、この地域が対外的なものよりも生活をまず第一としているからで、たしかに観光には向いていないかもしれないが、私はここで生まれ育ったことに感謝している。

さて、今私が飲んでいるニレブレンドは、豆で購入して自宅で挽くくらいには美味しいのだが、やはりこの空間で飲みたくなるものだ。それはこのコーヒーが、様々な要素によって演出されるからだろう。コーヒーを飲むに至るまでを体験することに魅力があるのだ。
木のカウンターを飾るプロダクトやそれを静かに照らす明かりだけではなく、店のドアを開けてから続くアプローチのスモーキーな香りや、4℃を前にビルを半分ずつ下がるときの高揚感もそう。
地下から街へ出てからの雑踏音。無数にある駅の出口からは、それぞれに私の体験の記憶がフラッシュバックする。
そしてなにより、ブレンドコーヒーを求めて家を出るその瞬間に、何にも代えられない喜びがある。
建築は用途をもって生まれていて、用途がもつ目的を達成する為にあるだろう。だが、建築を用いる人が求めることは、用途ではなく体験にあることを忘れてはならない。それは建築の素材感やインテリア、プロダクトはもちろん、建築の周囲から都市に至り、住宅にまで及ぶ。
私達が建築を建てるとき、同時に他の何かと(あるいは他の全てと)関係づけられながら創られるのだ。

もし建築が用途を失ったとき、建築が失われてしまうのであればそれは、街から切り離された、言わば用途のみを全うする「完全な」存在だったということだろう。街は、私達の体験の一つ一つが一本の記憶の糸で繋がれた数珠のようであり、一つの石が失われても、糸がどこか切れてしまっても損なわれてしまうものだ。もしもどこかの建築の用途が失われても、その建築に誰かの体験が残る「不完全さ」があれば、街に残そうという働きがうまれる。用途の消失によって失われる「完全な建築」は、体験が用途の中にしかないということだ。

欧州の街が変わらないのは、歴史を重んじるというよりも、体験の記憶を大切にしていると言える。一つ一つの建築が、誰かの数珠の石として成り得ている。しかし日本の街は、戦後の復興から生産と技術の発展を受けて、機能に忠実な「完全な建築」が生み出された。しかしその戦後の時代が未だ続いているようにみえる。用途に尽くして裏切らないその姿は、まるで生産ラインに並んだ機械たちのようであり、道を歩く私達はベルトコンベアに載せられた機械製品にみえてくる。戦後が続くように見えるこの日本は、機械が機械を作る連鎖になっていないだろうか。

そんなことを考えていると、もう少しここに居たくなってきた。
「ニレブレンドおかわり」