取っ手の無い内開きドア

こんにちは。NAF2019副代表の隆範です。
唯一、コラムを二回目書くことになったのですが、(前回のコラムはこちら→http://nagoya-archi-fes.com/column/archives/1624/)前回はゆったりと建築コラムを書けたので、今回はもう少し、想いの部分を書こうかなと思います。

私はこれまで、多くの人に恵まれました。
恵まれるというのは、出会いと発見において、意義深い時間を過ごせているということです。今年度は特に。

出会うというのは今の時代、Facebookでフォローしたり、Twitterでフォローしたり、Instagramでフォローしたり。そんなに難しいことでも無くなってきました。
出会い方は様々にしても、多くの人とネットワーク状にコミュニティが広がることは、自身を社会と接続し、社会に貢献していく為に価値のあることです。

今まで知らなかったことを知った時、人は「世界が広がった」と感じます。
新たな本に出会ったとき。
尊敬する先生との出会い。
新たなコミュニティ。
私自身、大学に入ってからの世界は希望に満ち満ちています。
世界の広がりを感じたとき、私たちはこれまで閉じた箱の中にいた自分を想像し、
新たな世界と繋がるドアを発見したと考えます。

知見というのはつまり、新たなドアを発見し、自らが箱の中にいることを認知することです。
私たちはそのドアの先に、新しい出会いと世界を期待します。
しかし、それは苦しくも、世界の広がりを予感したに過ぎません。
そのドアの向こう側へと行くことができる人は、極く僅かです。

さて、大きく立ちはだかる壁に、僅かに見つけた希望のドア。
私はこのドアを、「取っ手の無い内開きドア」と捉えています。

私たちはドアを開けたその先を想像し、憧れ、希望の中に仲間を見つけます。
仲間と共に想像するドアの向こうは輝かしい未来です。
しかし、このドアはミニマリストが建てたのか、完璧に納まっていて、
どのように開ければいいのか分かりません。
押してダメなら引いてみろ?引く取っ手が無いじゃないか。
多くの学生が直面しているのは、
多くの現代に生きる人々がぶつかっているのは、
正にこの、開け方の分からない「取っ手の無い内開きドア」です。

情報過多の世の中に、時代の最先端と呼ばれるものが数限りなく並列しています。
壁の向こうにいる人を沢山見せつけられます。
劣等感のうちにいつしか、ドアを開けることをやめてしまいたくなる。
隣にいた仲間は右へ左へ、回れ右。
壁を上ろうとして落ちる者も。
一方で、いつの間にか壁の向こうにいる者もでできます。
いつの間に?となりに居たはずの彼が壁の向こうにいるのはどうして。

実は「取っ手の無い内開きドア」は、壁の向こう側から押せば容易に開けることができます。
誰しもが、次の世界へと進むとき、自分ではない何かのキッカケによって達成されています。
その多くは奇跡と表現されますが、それでは納得できるはずもない。
では彼は、ただ運がよかっただけなのか。

このドアは、いつ誰が何のキッカケで開けるのかわかりません。
来年かもしれないし、5年後かもしれないし、もしかしたら明日かもしれない。
ただし、ドアは一つとは限らない。
冒頭に言ったように、ドアとは知見により発見されるものです。
多くのドアを観察していれば、きっとこの広大な世界の中で、誰かがどこかのドアを開けてくれます。
僅かに開いたそのドアに、真っ先に見つけて飛び込んだのが彼です。
無情にも、見つけたそのドアの向こう側に素晴らしい世界が広がっているのかどうか、行ってみなければ分かりません。
しかし、迷ったその一瞬にドアは閉じてしまうのです。

学部四年を前にした同輩だけでなく、多くの人が不安を口にします。
「このままではだめだ」
「これから自分はどうしていこう」
「自分には力が無い」
「自分に自信が無い」
「みんなはあんなにも頑張っている」
「なにかしなくちゃ」
「でも、、何をしよう」

そんな時、大きな壁に手をあてながら、手探りでドアを探してみてほしい。
まだ見つけてないドアが、きっと沢山あるはずだ。
生きるということは、終わりのない箱の中でドアを探す旅です。
まだ旅の途中じゃないか。
右に行ってもいい。左に行ってもいい。少しだけ壁をのぼってみるのもいい。
「取っ手の無い内開きドア」を見つけたら、
手が赤くならない程度でいいからノックしようじゃないか。